閑話休題。映画『黒い牛』

映画『黒い牛』https://alfazbetmovie.com/kuronoushi/ は禅の修行をあらわしたとされる廓庵の『十牛図』(12世紀後半)がモチーフです。十の頌(たたえること)と画からなります。


『十牛図』の最初の「第一尋牛(牛を尋ぬ)」の冒頭にはこう書かれています(上田・柳田, 1992. p.189)。

  はじめから見失っていないのに、どうして探し求める必要があろ  
  う。(従来不失、何用追尋)

 いきなり、何を見失ったか、誰が探すのか、わからない、始まります。そもそもなぜ探すのか。 映画では、モノクロームの画面、大きな黒い牛が忽然と現れます。
 
 『十牛図』のなかごろ、「第五牧牛」の「牧」は牛を放し飼いにすること、養い育てることだとされ(同書 p.222)、自然音や効果音の大地をゆるがすような大音響がふりそそぐなか、牛とのつながりが描かれます。(引用はp.218)

  牛の鼻の綱を強く引くことことだ、もたついてはならぬ。(鼻索牢牽、不容擬議)
  
 最後の「第十入鄽垂手」の入鄽垂手とは、町々を廻り、手をぶらりと下げたところ。人々の中にいて、なにも
しないこと。無為にして化する意。と解説されています(同書 p.256-262)。辞書によれば鄽(テン)は「やしき」、「みせ」の意味、化するとは「前の状態と全く違ったものになる」との意味だそうです。これは一体どういうことか。


 『十牛図』の第一にはじまり第十にいたる映画です。第十はエンドロールに。牛もいない人もいない。
                    (タカシホンダ  策杖還家

【参考】上田閑照・柳田聖山(1992) 十牛図 ちくま学芸文庫
   
  

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